荒尾精先生の碑文によせてー
ここの解説板では、正面の荒尾精への追悼碑文および右隣に設けられた霞山会による解説板の中に記された荒尾精の構想により実現した東亜同文書院について紹介させていただく。
「東亜同文書院」は、荒尾精が私塾「漢口楽善堂」を発展させて一八九〇年(明治二十三年)上海に開設した「日清貿易研究所」の経験をふまえ構想した世界初の国際ビジネススクールであった。
その直前に近衛篤麿は清国両江総督劉坤一に会い、その承認の上で日清両国の学生を一緒に教育する南京同文書院を開設したが、義和団の乱を避けて上海へ移動し、折しも上海で荒尾精が構想したビジネススクールを実現しつつあった根津一の学校と統合し、一九〇一年(明治三十四年)に「東亜同文書院」を誕生させた。
近衛篤麿は南京同文書院開設時に、各府県の知事を巡り、各府県から数名の学生を府県給費生として派遣依頼をする方法を採ったが、東亜同文書院への入学生にもこの方式を採用し、全国からすぐれた旧制中学、商業学校卒業生を集め、勉学や進取の気性に富む若者に新しい進路を開いた。そして徹底した清語と英語の教育を軸に、幅広い貿易関係の専門科目群を習得させ、日清間の貿易実務者の養成を図った。それは荒尾精がそれより前、三年半に及ぶ清国で実地に会得した商取引経験をふまえ、実践と原理を組合せた独自の教育システムの実現であった。
そのうちの実践では「大旅行」と称する現地踏査による調査研究法が学生からの要望で設けられ、特筆された。自由に自力で中国を見聞したいという熱意のあふれた学生たちは、四~六人ほどの各グループを編成し、卒論になる踏査期間は三、四カ月、徒歩中心の踏査旅行を行った。その範囲は中国本土から満州、東南アジアに及び、二〇世紀前半期のこの一帯の地域像を七百コースで記録し、その成果は『支那経済全書』(全一二巻)、『支那省別全誌』(全十八巻)、『新修支那省別全誌』(九巻目で戦時により中断)として広く公刊され、日本初そして世界初の地域研究のパイオニアとなった。
この体験は中国はじめ各地の人々との交流も含め、書院生のその後の人生に大きな自信と誇りをもたらした。それは、卒業生の就業にもあらわれ、起業も含めた実業界を中心に、外交、報道、教育、学界など、戦前は勿論、戦後引揚げ帰国したのちも、商社などの国際化にも寄与し、戦後日本の高度経済成長を中心的に支えるなど幅広い活躍を示した。
ところで、敗戦により一九四五年(昭和二十年)、上海の東亜同文書院大学は一旦閉学せざるを得なくなったが、その直前に開設されていた呉羽分校(富山県)は吉田茂外相の認可により再開復活した。しかし、この年末、経営母体東亜同文会の会長であった近衛文麿が自決し、同会はGHQにより解散され、書院大学の分校も閉学となった。
その一方、まだ上海に留っていた最後の本間喜一学長は、第一次世界大戦後の超インフレ時代のドイツ留学での経験を生かし、紙幣すべてを食糧や車、油、金などに換え、中国各地から上海へ帰校してくる書院生や教職員を経済的に支援し、日本への帰国を待った。そんな折、呉羽分校閉学を知り、急遽代替地を求めるよう分校関係者へ要請し、その結果、分校神谷教授の尽力で愛知県豊橋市の旧陸軍予備士官学校跡が確保された。
こうして翌一九四六年春、書院生の学籍簿や成績簿とともに本間学長一行が帰国すると、呉羽校舎でも検討されていた新大学構想実現に着手した。そして六大都市以外で初めての「旧制大学」を受け入れる豊橋市の全面的協力のもと、書院時代の教員と学生を軸に、新たに台北、京城帝大の教員そして第一線の研究者や外地および国内他校からの学生も加え、一九四六年(昭和二十一年)十一月十五日、「知を愛する」意を込めて「旧制大学」としての「愛知大学」を誕生させた。しかも、GHQの支配下にあって設立主旨には堂々と「国際人の養成」を掲げて書院の背景を示し、また最初の地方都市への立地に「地域社会への貢献」を掲げた。
とはいえ、敗戦直後無一文で引揚げてきた状況下で、新大学を実現することは、資金、施設、図書などの整備に、言い尽くせないドラマチックな歴史も刻んできた。
現在、愛知大学は豊橋、名古屋(笹島、車道)の三校舎に法、経済、経営、文、現代中国、国際コミュニケーション、地域政策の六学部と短大を展開し、一万人の学生が学んでいる。うち、現代中国学部と大学院中国研究科は日本唯一の存在であり、他の関係専攻とともに東亜同文書院の血脈が流れている。
また、「愛知大学東亜同文書院大学記念センター」が設けられ、書院の顕彰と研究をすすめ、書院の志を今日に伝えようとしている。
以上、荒尾精先生の構想を軸に、それを支え実現した近衛篤麿、根津一の三先覚の偉業も顕彰し、荒尾を讃えた近衛のこの碑文に敬意を表し、亜同文書院とそれをルーツとする愛知大学誕生に至る経緯を紹介させていただいた。
<付記> 建立以来苔蒸して解読が困難となっていたこの碑を今日在る姿にしたのは、三田良信氏(書院四十二期生)父子のご尽力による。
二〇二五年(令和七年)十一月
愛知大学