【12/6開催】国際シンポジウム 「近代日中関係史の中のアジア主義―東亜同文書院と東亜同文会」を開催

126日(日)、愛知大学豊橋校舎研究館1階において愛知大学東亜同文書院大学記念センター主催の国際シンポジウム「近代日中関係史の中のアジア主義―東亜同文書院と東亜同文会」が開催されました。
三好章愛知大学東亜同文書院大学記念センター長の開会挨拶、馬場毅名誉教授の趣旨説明に続き5名の発表が行なわれました。

第1報告は、東亜同文書院大学記念センターポストドクターの野口武氏が「明治中期の貿易活動における日清貿易研究所の位置」という題で発表しました。1890年に日清貿易研究所を設立した荒尾精が、漢口楽善堂を経営した時期(18861889年)を中心に、漢口楽善堂は中国商人と商業取引を行う一方で、日本の阪神京浜貿易商社との間で委託販売を行っていたこと、そうした委託販売の背後に町田実一漢口領事による農商務省への情報提供があったことなどを、明治初期の大阪・関西経済の状況や、荒尾が中国渡航前に軍人として赴任した熊本の権力構造や経済策などを踏まえながら、詳細に述べました。
第2報告は、東亜同文書院大学記念センターの武井義和研究員が「山田純三郎の孫文支援について」という題で、1910年代から1925年孫文逝去直前までの時期に、山田純三郎が行った孫文への財政的支援活動の流れと、そうした活動において山田が関わった人間関係について明らかにしました。それらを考える場合、1921年の「中日組合規約」への山田の関与が、彼の活動を考える上で1つの転換点として捉えられるという指摘もなされました。

第3報告は、中国社会科学院近代史研究所の李長莉研究員が「宮崎滔天と孫中山広州非常政府の対日外交―何天炯が宮崎滔天に宛てた書簡を中心に」という題で、孫文と共に革命に奔走した何天炯が、1920年から22年にかけて日本の友人である宮崎滔天に宛てた書簡を手掛かりに、孫文および広東政府と日本との関係について発表しました。孫文が次第に日本に対する批判を強め、また日本の中国侵略が強まっていく中で、宮崎滔天は日本政府のそうした方針に反対したことなどが明らかにされました。

第4報告は馬場毅愛知大学名誉教授が「大アジア主義から「脱亜入米」へ」という題で、戦前から現代に至るまでの日本とアジアとの関わりについて、思想的側面から発表しました。明治維新後の近代日本の「脱亜入欧」下で誕生したアジア主義が、日中戦争開始後に「大アジア主義」へと変化し日本政府の政策とされたこと、一方、戦後GHQの占領下で「脱亜入米」が始まり、サンフランシスコ講和条約で主権回復した日本は冷戦体制下でアメリカに従属しながら、大東亜共栄圏構想に含まれていたアジアの国々と賠償・準賠償を通じて関わっていったこと、しかし日本は独自の視点や哲学でアジアに向きあってきたとはいえず、「脱亜入米」下の対米従属は今でも進行していると指摘し、今日的な問題点も含めて論じました。
第5報告は霞山会研究員の堀田幸裕氏が「東亜同文書院の「復活」問題と霞山会」という題で、霞山会が東亜同文書院の復活を意識して、1966年に中国科や貿易科等を置く1年制の各種学校「東亜学院」を設置したものの、運営をめぐる問題などにより大学昇格を果たせないまま、1975年に各種学校としての歴史を閉じたことについての経緯が、詳しく述べられました。

各報告後の質疑応答や最後の総合討論では、フロアから質問やコメントが寄せられ、活発な議論が展開されました。50名ほどの来場者があり、遠方より東京、岡山、熊本からの研究者が、一方では高校生や本学卒業生を含めた一般の方が参加され、会場は満席になるほどの盛況となりました。


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